【日本人として知っておきたい】フィリピン・セブ島の近代史。フィリピン独立までの歴史を解説します。

フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

現在では、アイランドリゾートとして日本人にも人気の観光地であるフィリピンのセブ島。その島には今の姿からは想像できないような壮絶な歴史があるのをご存知ですか?

この記事では、セブ島の近代史とフィリピンが独立するまでの歴史の流れを分かりやすくご紹介します!

フィリピン諸島の歴史の始まり

古代 フィリピン・セブ島 日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

2万5000年以上前の旧石器時代、フィリピンに初めて人類が現れました。東南アジアとフィリピン諸島は陸続きであったため、そこから人が移住してきたという説が有力なようです。紀元前200~300年前には、マレー人が侵入してきて、先住民とともに農業をして暮らしていました。

古代 フィリピン・セブ島 日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

セブ島は後にスペインが長きにわたり統治することになるのですが、その時代以前は「スグブ」とか「スブ」と呼ばれていました。14世紀ごろにはマレー半島からイスラム教が伝わり、全島に広まりました。15世紀ごろには中国やタイ、東インド諸島などと交易が始まり、セブ島は通商貿易の拠点として大いに栄えていました。

マゼランによるセブ島の発見

フェルディナンド・マゼラン フィリピン・セブ島 日本との関わりをメインにフィリピン独立まで
フェルディナンド・マゼラン

1521年にはポルトガル人の航海士、フェルディナンド・マゼランがセブ島に上陸しました。当時、世界は大航海時代で、各国が競って植民地となる土地を求めて世界中を探求していました。

マゼランもスペイン王の命令で東方に領土を広げるために航海に出てセブ島を発見しました。マゼランはセブ島の王フマボンに気に入られ何度も王宮を訪ねています。そしてファナ女王にサント・ニーニョ(幼いころのイエス・キリスト)の像を送り、キリスト教に改宗させることに成功しました。

マゼラン・クロス フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

フマボン王をはじめ500人もの住人が洗礼を受け、これがフィリピンのキリスト教信教の始まりと言われています。マゼランのセブ島上陸をきっかけにセブ島におけるスペインの植民地支配の時代が幕を開けました。

スペイン統治時代

フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで
マゼランはその後セブ王への服従も強要するようになり、マクタン島をスペインの領土と宣言しました。マクタン島には当時二人の王がおり、一方の王はマゼランに従いますが、もう一人の王ラプラプは激怒しマゼランとの間で争いが起こります。そして1521年4月27日、マクタン島の戦いにおいてマゼランは殺害されてしまいます。マゼランを破ったラプラプはフィリピンの英雄として今も国民に愛され続けています。

ラプラプ王 フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで
ラプラプ王

マゼラン艦隊の生存者はスペインに帰国し、フィリピン諸島の現況を報告しました。スペインはその後も侵略を企てますが、ことごとく失敗します。そしてマゼランの上陸から44年後、1565年4月28日にはミゲル・ロペス・デ・レガスピという人物が再びセブ島に上陸します。レガスピは500人もの遠征隊を率いてセブ島に攻撃を仕掛けます。そして1564年にセブ島を制圧。1569年にはパナイ、1570年にはマニラを制圧します。

ミゲル・ロペス・デ・レガス 古代 フィリピン・セブ島 日本との関わりをメインにフィリピン独立まで
ミゲル・ロペス・デ・レガス

レガスピは首都をマニラと定め、1596年にはミンダナオ島、スルー諸島を攻撃しますが、マレー人の激しい抵抗に遭いました。スペイン統治時代にフィリピン南部はついに征服できなかったといいます。マゼランの死後、スペイン統治時代は約333年ほど続くことになります。

独立運動の高まり

フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

17世紀になると各国で自由獲得運動の気運が高まります。各地で起こる武力闘争はフィリピン革命へと発展していきます。1898年にはアメリカがフィリピンの独立運動を支援するという名目でスペインと戦争を始めます(米西戦争)。

この戦争で勝利したアメリカが今度はフィリピンを植民地としてしまいます。アメリカはフィリピンに自主統治を認め、翌年の6月12日にはフィリピン第一次共和国として独立を果たしました。初代大統領はエミリオ・アギナルドという人物でした。しかし背景には、アメリカがスペインに2000万ドルもの大金を払ってフィリピンの統治権を買い取った事実もあるとされています。

フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

1898年に調印されたパリ条約によって、フィリピンの領土はアメリカと割穣され、これに不満を持ったフィリピンとアメリカの間で戦争が起きてしまいます。これが米比戦争です。この戦争によって60万人ものフィリピン人が殺され、エミリオ・アギナルドはアメリカ軍に捕らえられ、フィリピン第一次共和国は崩壊しました。以降40年もの間アメリカによる過酷な植民地支配が続きます。

セブ島と日本の関係

フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

第二次世界大戦中にフィリピンを一時日本が支配していたことをご存知ですか?日本は1942年4月にセブ島に上陸し、セブ島は日本にとって重要な物資補給地点、軍事拠点となっていました。

1942年1月には日本はフィリピンのマニラを占領し、1945年8月までの3年間、フィリピンは日本が統治していました。しかし、フィリピン人は独立への夢をあきらめてはいませんでした。スペイン、アメリカ、日本と長きにわたり植民地支配を受けましたが、第二次世界大戦で日本が負けたことにより、フィリピンは1946年7月4日にフィリピン共和国としてようやく独立することができました。

その後のフィリピンとエドサ革命

サンペドロ フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

マルコス大統領の名前を聞いたことがあるでしょうか。マルコスはフィリピン共和国の第10代大統領で、以後20年間もつとめましたが、独裁政権を振りかざしフィリピン市民は再び苦しめられました。マルコス政権の時代、フィリピン市民の暮らしは植民地支配の時代と何ら変わることがなかったのです。こうして国内、国外からマルコス政権を批判する声が強くなっていきました。

そうした中、元上院議員ベニグノ・アキノという人物が反マルコス政権運動を展開していました。マルコスはベニグノ・アキノ氏をアメリカへ亡命させるまで追い込みますが、ベニグノ・アキノはアメリカでも反マルコス運動を続けます。

ベニグノ・アキノ 古代 フィリピン・セブ島 日本との関わりをメインにフィリピン独立まで
ベニグノ・アキノ

出典:Wikipedia

しかし、大統領選挙のために帰国したフィリピン空港で彼は暗殺されてしまいます。これをきっかけにフィリピン国民の怒りは爆発し、1986年、マニラにあるエドサ大通りに100万人が集結して激しく抗議。マルコスは海外へと亡命せざるを得なくなりました。

これが有名な「エドサ革命」で、フィリピン市民が自らの手で新時代を切り開いた象徴的な出来事です。同年2月25日には、ベニグノ・アキノ氏の妻、コラソン・アキノ氏が第11代大統領となりました。翌年には新憲法が成立し、現代のフィリピンの礎ともなっています。

フィリピン・セブ島の歴史をご紹介しましたが、いかがでしたか?

フィリピン・セブ島の近代史。日本との関わりをメインにフィリピン独立まで

現在は観光業と家具製造業で成功しているセブ島。その歴史の裏にはフィリピンの人たちの地元を愛する心と、数々の植民地支配にもめげない独立への強い意志が有りました。そうした事情に思いを馳せると、セブ島をより身近に感じていただけるのではないでしょうか?