近代ベトナム史最大の出来事「ディエンビエンフーの戦い」とは。ベトナム独立戦争の始まり、第一次インドシナ戦争の歴史を交えて徹底解説いたします。

超大国アメリカが衰退するきっかけとなったベトナム戦争は有名ですが、これはもともとベトナムを統治していたフランスの肩代わりとしてアメリカが介入したことに端を発します。では、なぜ、フランスはベトナムの占領をやめたのでしょう?

その契機となったのが、「ディエンビエンフーの戦い」での歴史的な大敗北だったと言われています。この記事では、「ディエンビエンフーの戦い」とはどういうものだったかを、第一次インドシナ戦争の歴史を交えて解説します!

インドシナ戦争(1946~54年)の歴史について

第二次世界大戦が勃発し、ドイツがフランスを破ると、フランスの植民地であった仏領インドシナ(ベトナム)を、日本軍が占領するようになりました。第二次世界大戦で日本が敗れると、1945年9月にベトミン(ベトナム独立同盟)を結成して独立運動を展開していたホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言しました。

独立宣言を許さなかったフランスは、軍隊を派遣して、再びインドシナの支配を復活させようとします。これに対抗して、ホー・チ・ミンは独立のための武力闘争を始めました。1946年11月に本格的な闘争が始まり、12月にはベトナム全土、さらにカンボジア、ラオスのインドシナ三国に拡大しました。

長い闘いを経た1954年、ようやく停戦交渉がジュネーヴ会議として始まりました。その最中の5月にフランス軍が「ディエンビエンフーの戦い」で敗北し、7月にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現します。この間の戦争を「第一次インドシナ戦争」ともいいます。

ディエンビエンフーの戦いの始まり

ベトミンは植民地独立を目指し、1946年から本格的な武力での戦いを始めました。正面からぶつかったらフランス軍にかなわないと感じたベトミンは、ゲリラ戦法でフランス軍に対抗します。ハノイのフランス軍現地司令部は、思うように戦いが進まないため、ある作戦を立てることによって状況を打開しようとしました。

フランスは、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーに基地を築くことでベトミンを誘い出し、敵主力軍を決戦に引きずり込むという作戦を立てました。ディエンビエンフーには旧日本軍の飛行場跡があり、空から物資を補給することも可能だったからです。

しかし、これには作戦を危惧する声も多数ありました。それは主に次の3点でした。

・ベトミンが火砲を持っていた場合、火砲攻撃されると逃げ場を失

・資材の補給場所への道が悪いため、空中からしか調達できない

・ディエンビエンフーは拠点ハノイから300kmも離れた山の中にある

しかし危惧する声は、ベトミン軍を侮っていたフランスの司令部の参謀たちによって無視されました。そして1953年11月にフランスの基地司令官に就任したクリスティアン・ド・カストリ大佐は基地周辺に防御陣地を築くように命令を下します。

こうした情報はベトミンにもすぐ伝わり、ボー・グエン・ザップ将軍は、フランス軍を包囲するチャンスだと判断し、5万のベトナム兵をディエンビエンフーに集めました。ベトミン軍は、フランス軍の予想に反して、大口径の野砲を持っていました。

これは中国の共産党軍からの武器の援助と第二次大戦後に日本陸軍から接収した山砲があったためです。12月以降、続々と集結したベトミン兵は、フランス軍から見えないように基地周辺のジャングルや山の中に布陣し、塹壕や山の斜面に火砲を設置していきました。

これには、この地方特有の雨と霧がフランス軍の視界を妨げたことも有利に働きます。こうして、翌年1月までには、5万のベトミン兵がディエンビエンフー周辺に集結を終えていたのです。

ベトミン軍の作戦

フランス軍は乾季のうちに決着をつけるつもりでしたが、ベトミン軍は雨季をねらっていました。1954年3月13日、山中からの砲撃をきっかけに以後56日にわたる「ディエンビエンフーの戦い」がついに始まりました。ベトミン軍は中国共産党の戦法を見習って人の数の力(人海戦術)で陣地を突破しようと試みます。

空からの支援があり装備で勝るフランス軍もベトミン軍の夜襲を何度も大きな損害を与えて撃退します。しかし、いくら倒しても湧いてくるベトミン軍にフランス軍は次第に疲労の色を濃くしていきました。

戦いは長引き、フランス軍の恐れていた雨季がやってきます。戦場には放置されたままの数千の遺棄死体が腐ってものすごい臭気となって、連日の戦闘で疲労し睡眠も十分に取れていないフランス軍を襲います。フランス軍はあわてて戦闘の合間に埋葬しようとしますが、土砂降りの雨の中ではそれもできませんでした。

ベトミン軍はそれでも攻撃の手をゆるめず、人の数で圧倒する戦法をさらに強化しました。そしてどんどんとベトミン軍は中心のフランス司令部陣地に迫っていきます。フランス軍も外人部隊などを中心に激しく抵抗しますが、3分の2がほぼ全滅しました。

決着のとき…

5月4日、ついにベトミン軍がフランス軍の司令部に突入しました。フランス軍司令官のカストリ大佐が捕虜になったのを機に戦いは終わりました。まだ陣地を守っていた外人部隊も、司令部が白旗を揚げたのを見て応戦をあきらめました。

こうして世界有数の大国であるフランスは戦死2200、捕虜1万以上の犠牲者を出し、格下だと侮っていたベトミンに敗北します。敗北を受けて、フランスはジュネーブの和平交渉でベトナム民主共和国の独立を認め、ベトナムの地から去っていきました。

また、東南アジアが共産化することを恐れた超大陸アメリカは、17度線以南に「南ベトナム」というアメリカが思うように操れる国家を作り、北ベトナムと対立します。これが後のベトナム戦争へとつながっていきます。

最後に

アメリカの武器援助を受けたフランス軍が、ベトミンのゲリラ戦に敗れたことは、世界中を驚かせました。もっとも、フランス兵の実態は大戦後に流れ込んできた旧ナチスも含む外人部隊が主力で、戦闘意欲は高くなかったとも言われています。

「ディエンビエンフー」の名は今ではベトナム人にとって輝かしい勝利の記憶とされ、ハノイの大通りの名前にもなっています。

Điện Biên Phủ

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