【世界遺産の古都】ベトナム・フエの歴史と変遷をご紹介します!古代から現代までベトナムの激動の地といえばここ!ベトナムで一番歴史が凝縮された都市の秘密に迫ります。

ベトナム中部に位置するフエは、世界遺産に登録されていることもあり多くの観光客が訪れる都市です。ベトナム最後の王朝があった場所としても知られています。

古都と呼ぶにふさわしいフエは、幾度も中国やフランスに支配された場所。そんなフエの歴史は激動でした。フエが確立されるまでの歴史、多くの皇帝が統治したグエン王朝の歴史にも迫ってみましょう。

グエン王朝が始まるまでのフエの歴史

ベトナム中部では、チャム族を中心としたチャンパ王国が支配していました。それと同時に陳王朝もあったベトナム中部。その両国の間で協定が結ばれ、1307年、フエは化州という名前に改名されました。

のちに胡朝時代が始まります。胡王朝は1401年~1407年の短いもの。その間に、当時紅河デルタ地帯でさまよっている人々を化州に移住させます。

順調と思われた胡王朝も、明の侵略により滅びました。しかし陳王朝王族もいた当時、陳王朝の生き残りは、明に対して抵抗を続けたといわれています。フエはチャンパ王国との国境に位置する都市というだけで、とりわけ目立つ都市でもなかったんです。

フエに築かれたベトナム最後のグエン王朝

やがて大きな王朝が築かれるフエ。1802年~1945年まで続いた、ベトナム最後の王朝の都としてフエは繁栄していきます。

多くの皇帝が指揮をとったグエン王朝ですが、一筋縄には行かなかったようです。ここからは、フエを代表するグエン王朝について説明します。

ザーロン帝が王につきグエン王朝が始まる

グエン王朝の創始者ザーロン帝が、1802年、フエを都と定めグエン王朝が幕開けしました。ザーロン帝は、フランスの軍隊技術者で有名なヴォーバンの建築様式を取り入れ、星型の皇城を計画。1805年には皇宮の建築も開始されます。

ザーロン帝は1819年まで任期を務めました。

グエン王朝の増強に貢献したミンマン帝

のちに皇帝となったのがミンマン帝です。ミンマン帝は、グエン王朝を最盛期までに持っていった力ある皇帝。国力の増強を中心に、国史館も建設しました。政治だけでなく文芸にも力をいれていた皇帝です。

また中国や西洋の情報を積極的に取り入れ、技術面でも飛躍的に発展を遂げます。ミンマン帝は、外交にも積極的。近隣のカンボジアやタイなどと外交を行っていた記録も残っています。

ミンマン帝は1841年まで続きますが、その間にフランスが国交を求めてきました。フランスは条約の締結とキリスト教宣教師の受け入れを希望していましたが、ミンマン帝はそれを拒否。拒否するだけでなく、外国人の商業取引を厳しく規制し、さらにキリスト教も押しのけました。

このおかげで、グエン王朝とフランスの関係が悪化していきます。

フランスが開国を求めてくる

ミンマン帝の後、ティエウチ帝とトゥドゥック帝が王朝を取り仕切りました。ティエウチ帝時代が最盛期を迎えます。1847年~1883年まで任期を務めたトゥドゥック帝は、哲学と詩を愛したと言われる人物です。

トゥドゥック帝時代のさなか、1858年、フランスが開国を迫り中部に位置するダナンの攻撃が始まります。さらにフランスの開国に反対していた清もグエン王朝に介入を始め、グエン王朝の政局は混乱を見せ始めました。

フランス占領により大きく変化したフエ

トゥドゥック帝から、何人もの皇帝が指揮をとっていましたが、1883年、フランスに占領されます。また第二次フエ条約を締結したため、フランスの保護国として制定。

その二年後の1885年、当時即位していたハムギ帝がフエから逃げ出し、行方をくらましました。フランスはグエン王朝は残す意向だったので、フランス側が決めたドンカイン帝を皇帝につかせます。ただしこれは形上のこと。あくまでもフランスの支配下に置かれていたことには変わりありません。

フランスの意図で即位したドンカイン帝は、25歳の若さで亡くなりました。ここからタインターイ帝、ズイタン帝、カイディン帝が即位します。なかでもカイディン帝は、派手好きで有名でした。またフランスの影響を大きく受けた皇帝でもあります。

グエン王朝の崩壊

1926年からバオダイ帝が即位します。フランスへの留学経験もあるバオダイ帝は、第二次世界大戦後の1945年まで着任しました。着任後も留学してたバオダイ帝。1932年にフエに帰国し、国民の自由を保障する政治改革を考案しますが、保守派の反対もあり断念しました。

バオダイ帝が目指した政治は、今の日本国憲法によく似たものです。やがて日中戦争が勃発。そのとき日本軍は、ベトナムからの輸送ルートを遮断して中国に不利になるよう、フランスが占領していた地に乗り込みます。

その後、日本軍はベトナムに駐屯し、フランスと協力し合って統治しました。やがて明号作戦を発動。これは日本軍がフランス軍に攻撃し、実質的な支配を納めたんです。

この作戦を機にバオダイ帝はベトナム帝国を宣言し、無事独立を果たしました。やっと独立を果たしたグエン王朝ですが、数ヵ月後に太平洋戦争で日本が敗戦。直後の1945年8月17日、「ベトナム八月革命」が起こり、ベトナム帝国は滅亡しました。

崩壊した後、ベトナム民主共和国が誕生。バオダイ帝は、このタイミングでフランスへ亡命し、余生をフランスで過ごしました。

ベトナム戦争時代のフエの歴史

ベトナム民主共和国になり新しい時代が始まったベトナムですが、やがてベトナム戦争が始まります。フエもベトナム戦争の影響を受けました。

テト攻勢によって都市が分断

1955年からベトナム戦争が始まりました。南部ベトナムに対するテト攻勢が1968年に勃発。フエで戦闘が繰り広げられました。やがて北ベトナム軍に支配され、フエは分断。このとき約300人の人が生き埋めされたり銃で撃たれたりしました。ここからは悲惨な戦いがフエでも起こりました。

アメリカ軍によって要塞が陥落

ベトナム戦争の激しさが増していく中、アメリカ軍はフエの攻撃を始めます。攻撃が増し、やがてフエは焼け野原に。グエン王朝時代に建てられた建物も多く犠牲になりました。現在でもその爪痕を残しています。

ベトナム戦争終息直前の1975年3月、アメリカ軍は主要な街としてフエを解放しました。

ベトナム初の世界遺産となったフエの再建

ベトナム戦争が終わり、フエにも平和な世界が戻ってきます。ここでフエ再建のプロジェクトが始動。

その甲斐あって、フエは1993年、ベトナムで初の世界遺産に登録されました。広大な敷地を持つグエン王朝。まだ再建のプロジェクトは継続中です。激動の時代を乗り越えたフエは、私たちに何か語り掛けているかのようにも思えます。

まとめ

ザーロン帝が都として置いてから、大きな都として発展したフエ。中国やフランスの介入がありながらも、独自の政権を確立していたフエの政権は一筋縄ではいきませんでした。またベトナム戦争でも戦場となり、貴重な史跡も崩壊しています。

このような歴史を噛みしめながら、フエ観光を楽しんでもらえたらと思います。

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