今回は、ベトナムができてから今までどんな歴史を歩んできたのか見ていきたいと思います。今のベトナムがアメリカや中国、フランスなどの国際社会とどのような関わり方をしているか、歴史的背景から考えていきます。
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ベトナムの古代
紀元前8〜7世紀、文朗国(ヴァンラン国)
紀元前8〜7世紀、現在のベトナム北部・中部にいくつかの部落が誕生していきました。それぞれの部落は稲作農業を行なっていましたが、その中で部落内の格差が生まれ、豊かな者と貧しい者の差が大きくなっていきました。
その格差により部落同士で争いが絶えず、各部落の長たちは指導者(王や王朝)を建てることにしました。こうして文朗国(ヴァンラン国)が誕生しました。文朗国はベトナム初の国と言われています。
紀元前257年〜紀元前207年、甌雒(アウラク)
紀元前257年頃、文郎国の北部に興ったナムクオン国の王、蜀泮(トゥクファン)は、南下する「秦」と戦うために文朗国の王位を継承します。
そしてトゥクファンは文朗国を吸収し甌雒(アウラク)という国を建国します。アウラクの人々は立ち上がり、秦を撃退します。
紀元前203年〜紀元前137年、南越国(なんえつこく)
甌雒北部の人々は、秦を撃退して新たに南越国(なんえつ)を建国します。
この時、秦は始皇帝が死去し秦朝は衰退していきました。そこで、南越国は甌雒を滅し、国を大きくします。
しかし秦滅亡後、漢が力を強め、紀元前112年に南越国は漢の侵略に応戦しますが敗北します。そして南越国は滅び漢に支配される時代が訪れます。
紀元前111年〜938年、ベトナムの北属期
紀元前111年〜39年、第一次北属期
Wikipedia「First Era of Northern Domination」より引用
漢は紀元前111年に南越国へ軍を送り込みました。南越国は漢の軍に負け、国が滅びます。そして漢の支配が南越国であった地域にまで範囲を広がっていきました。
漢は始め、この地域の軍事指導者に統治を行わせていました。しかし漢は次第に漢の行政制度を導入し始め、漢の官僚たちによる支配が進みました。
かつての南越国の人々は、この統治に対して不満が募りました。そのために土豪の娘である徴姉妹(ちょうしまい)は漢に対して反乱を起こしました。しかしこの反乱は、漢の将軍によって沈められてしまいます。
そして漢の将軍は、反乱を起こした民衆たちに、より重い税と労働を課しました。また同化政策も推し進め、人々の生活は苦しくなっていきます。
44年〜544年、第二次北属期
Wikipedia「Second Era of Northern Domination」より引用
かつての南越国の人々は、辛い統治を打破しようと何度も中国の王朝(漢、随、唐)反乱を起こします。反乱→独立→再統治を繰り返す時代が、500年以上続きます。
602年〜905年、第三次北属期
唐になっても漢とかつての南越国の北部地域の支配は続きました。唐は、人々が反乱を起こしてもすぐに鎮圧させてしまいます。
しかし、900年頃、ついに唐によるこの地域の支配は薄まり、人々は独立した王朝の設立を目指しました。
938年〜1945年、ベトナムの王朝時代
1009年〜1225年、李朝時代
唐からついに独立した李朝(りちょう)は1009年、李公蘊(りこううん)によって開かれました。李朝はベトナム史初の長期政権で、1054年には国名を大越国とし、侵略してきた宗を追い返しました。
李朝は科挙や儒教・仏教を導入して中国文化を発展させました。しかし政治体制が未熟であったため、中央集権や統治がうまくいきませんでした。
大越国の人々は、政権の衰退や災害によって苦しい生活を強いられました。そんな人々は李朝に対して反乱を起こし、李朝は消滅します。
1225年〜1400年、陳朝時代
李朝が倒れた後、陳守度(ちんしゅど)は陳朝(ちんちょう)を樹立しました。陳朝は血縁を重視することで中央政権を集中させていきました。
陳朝は、1257年から1289年までの間にモンゴルからの3回の侵攻を撃退します。そして陳朝はモンゴルを属国にすることに成功しました。
しかし大越国の人々は、3度のモンゴルの侵攻を受け社会は混乱し飢餓問題に直面しました。陳朝では有能な血縁関係が減ったことで中央政権の集中が不安定となり、陳朝は衰退しました。
1428年〜1789年、黎朝時代
陳朝消滅後、黎朝(れちょう)は1428年に黎利(れいり)によって誕生しました。科挙や儒教・仏教を今まで以上に熱心に取り入れ、律令制度の整備を行い政治を安定して行いました。
しかし国王が短命であり、王権が衰退したため実権を武将が握るようになりました。そして武将たちの実権争いが起き、大越国の社会に混乱が広がって黎朝は衰退しました。
1802年〜1945年、阮朝時代
黎朝が消え、阮朝(グエンちょう)は1802年に成立します。ベトナム南部出身の阮福暎(かりゅうてい)が中部・北部を制圧してベトナム全土を統一した王朝となりました。国名は越南国(えつなんこく)になりました。
阮朝は科挙を実施し政権の集中化に尽力しましたが、フランスが1856年のインドシナ出兵でベトナムの中部と北部に侵略され政権を支配されてしまいます。
この阮朝は、後にホーチミン率いるベトナム民主共和国によって消滅します。
1887年〜1945年、ベトナムのフランス植民地時代の出来事
1884年〜1887年、清仏戦争
清は越南国の宗主国であると主張し、侵攻してきたフランスと1884年に清仏戦争を開始します。しかしこの戦争はフランスの勝利に終わります。
フランスは、1887年天津条約で、ベトナム全土とカンボジア、ラオスなどを束ねたフランス領インドシナとして植民地支配します。
1887年〜1945年、フランスの植民地支配
清仏戦争後、フランスはインドシナの植民地支配を本格化しました。しかし、第二次世界大戦が始まるとフランスはドイツに敗れ、インドシナの植民地支配はフランスから日本へ移行します。
1945年、日本はポツダム宣言を受け入れて第二次世界大戦に敗北し、インドシナから撤収します。ここでベトナムの北側地域は独立を試みホー・チ・ミン氏によってベトナム民主共和国の建国を宣言します。
北ベトナムと南ベトナムの分裂
しかしベトナム民主共和国は独立ができませんでした。1945年のポツダム宣言によって、北緯17度以北が中国の植民地(ベトナム民主共和国、北ベトナム)に、以南がフランスの植民地(ベトナム共和国、南ベトナム)になってしまったからです。
フランスはまた南北ベトナムを支配するために、中国と条約を結び、中国を北ベトナムから撤退させます。そして、中国が撤退したあとの北ベトナムは、フランスに対抗するためにインドシナ戦争を始めます。
1945年〜1976年、ベトナムの南北分断時代
1945年〜1954年、インドシナ戦争
フランスは、ポツダム宣言を受け、北緯17度以南の南ベトナムを獲得しました。北緯17度以北の北ベトナムは、再度支配を始めるフランス軍を撃退するために、ホー・チ・ミン氏主導で戦争を仕掛けます。
北ベトナム軍は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を撤退させ、インドシナ戦争に勝利します。
1965年〜1975年、ベトナム戦争
しかしここで、アメリカの軍事介入が始まります。アメリカは、敵対するソ連の近隣国であるベトナムが社会主義国家になることを恐れました。そこで1965年に北ベトナムへ空爆を行い、ベトナム戦争が始まりました。
アメリカ軍の激しい空爆や北ベトナム軍のゲリラ戦で南北ベトナムともに多くの犠牲者を出したものの、アメリカ軍は戦況を打開できなかったため北ベトナムから撤退し、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利で終わりました。
1976年〜現在、独立後のベトナム
1976年、ベトナム社会主義共和国の成立
アメリカの撤退後、北ベトナムは南ベトナムとの戦争に勝ち、南北が統一され1976年7月に今のベトナム社会主義共和国になりました。
1978年〜1979年、カンボジアからの侵攻と中越戦争
隣国のカンボジアは、アメリカに勝ったベトナムが侵攻してくる可能性を恐れました。そのため1978年にベトナムに進軍しますが、敗北します。
これを見た中国は、親交のあるカンボジアに代わって1979年にベトナムに侵攻します。しかしこれもベトナム軍によって制圧させられました。
1985年、ドイモイ政策開始
ベトナムの国民は、度重なる大きな戦争、侵略のせいで生活がとて苦しくなっていました。そこで政府は、ドイモイ政策を発表します。
ドイモイ政策では、社会主義を緩和し、産業を見直して市場経済を導入して経済の成長を促しました。
現在のベトナムへ
現在のベトナムは経済の成長が著しい国となりました。ドイモイ政策を推し進め、経済成長だけでなく国際社会へも参加する国になりました。今のベトナムはASEANやWTO、TPPなどの国際社会において重要な機関にも所属しています。
まとめ
いかがでしたか。今回はベトナムの国の成り立ちの歴史を見ました。今のベトナムがなぜ他国と国際関係を築いているかが歴史から分かっやと思います。そしてこれを読んでもっとベトナムの歴史を知りたくなってもらえたら嬉しいです。
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